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【連載】10兆円産業化を目指すドラッグストア今昔物語⑬

DgSとSMのコンビネーションストアや介護用品店、高齢者施設などを運営

業態開発に挑んできた千葉薬品創業者の齋藤茂昭さん

 

1960年9月15日、千葉市内に小さな薬局が誕生した。59年後の今、年商491億円(2017年度実績)企業に成長している千葉薬品(ヤックス)だ。創業者は明治薬学専門学校(現在明治薬科大学)を経て薬剤師となった齋藤茂昭さん。ひたすら業態開発に挑み続け、一般薬局、処方箋調剤、スーパー&ドラッグのコンビネーションストア、ドラッグストア、アウトドア用品、介護用品、高齢者施設などを運営してきた。では、どのようにして新業態を開発し成長してきたのだろうか。齋藤さんは、前回紹介したサンキュードラッグ創業者の平野清治さんの盟友であり、医薬品小売業最大のボランタリーグループAJDの旗揚げに参画し、ドラッグストア業界の躍進にも多大な貢献をした一人でもある。

(流通ジャーナリスト・山本武道)

 

「21世紀は、とくに処方箋調剤部門が大切になる」

千葉薬品の創業者・齋藤茂昭さん

「1990年代は“ドラッグストア創業元年”だったが、21世紀は、ますます協業化が激しくなり生存競争に勝ち残れなければ、吸収・合併劇は各地でおこるだろう。ドラッグストアの定義は?とよく聞かれるが、別にこれでなければならないということはない。アメリカに学ぶことは多いが、視察の際には、とくに共通する点を見るようにしている。売り場面積、商品の品揃え、とくに処方箋調剤については、これから大切な部門になる。そして、常にフレンドリーで笑顔が絶えない人財教育にも目を向けなければならない」

齋藤さんは、2000年を前にして、こう言われていた。

AJD創設がきっかけとなり、千葉市内の千葉薬品本社を、度々訪問させていただくようになった。目的は、齋藤さんとお会いして、アメリカ流通業の最新情報をお聞きするためである。アメリカ通の齋藤さんからは、流通業、とくにチェーンドラッグを立ち上げた創業者のことを、よく教えていただいた。ロングス、ウォルグリーン、ぺイレス等々、まだ見ぬアメリカチェーンドラッグ創業者たちの当時の話は、とてもおもしろかった。

 

小説『怒りの葡萄』に魅せられ若いスタッフと実践への旅に

1ドルが360円だった時代、アメリカンドリームにまつわる物語を、私は齋藤さんから何度も聞かせていただいた。『怒りの葡萄』もその一つ。1939年に発表されたJ・スタインベックの小説だ。後に映画化された。アメリカ中部地帯に住む農民たちの生活を不能にした自然の猛威(乾燥と砂嵐)と貧困で、多くの農民が土地を追われ、安住の地と新しい家を求めて長い旅に出る。

アメリカンドリームにかけたジョード一家は全財産を売り払い、おんぼろトラックで東部から西部のカリフォルニアに向かった。苦労しながら辿りついた彼らを待ち受けていたのは、唖然とするような飢えと貧困が溢れていた。「現地に行けば何とかなる」という希望を打ち砕かれた一家は、度重なる苦悩の連続にもめげず、歯を食いしばり、力を振り絞って人生に立ち向かう物語だ。新天地での暮らしを夢見て、カリフォルニアを目指した一家が出会ったさまざまな人々との交流、模様、家族との絆と辛い別れと死・・・。齋藤さんは、ある日、アウトドア用品を担当する若いスタッフたちとともにアメリカへ行った。

広大な土地に開業していたアウトドア用品の専門店には、店内に滝があり、訪れた人たちも楽しめるようになっていた。日本とはスケールが違うこと。店のスタッフたちの知識も接客も格差があった。それに何よりも、スタッフたちはフレンドリーで、「また来たくなる」と感じたという。

2階には、デキシーランドジャズが聞こえ、店舗には高齢者がいて、若いころにたくさんの魚を釣り上げた自分の若い時代のことを来店客に話していた。齋藤さんは、こんな店舗を各地で見ながらヤングたちと寝起きをともにして回った。まだ見ぬ地のことを話す齋藤さんは時折、当時の写真を見せてくれた。

齋藤さんは、若いスタッフたちとの思い出を話しながら、「いつかリタイアしたら小説『怒りの葡萄』とは逆の道、西部から東部を辿ってみたい」と言われていた。「齋藤さん、できれば私も参加してもいいですか」「うん、もちろん」齋藤さんは笑顔で答えてくれた。しかし残念ながら齋藤さんの夢、そして私の夢も実現することはなかった。齋藤さんが、友を訪ねた先で亡くなられたからだ。

 

1960年、千葉市内に4坪の薬局を開設

齋藤さんは、1929年(昭和4年)、北海道の富良野で生まれた。野山を駆けめぐって育ち、自給自足的な生活を送っていた。1945年8月、16歳のときに終戦を迎えた。その年の冬、霧のなかを進む青函連絡船に乗り、北海道を後にした齋藤さんは、やがて明治薬学専門学校(現明治薬科大学)に入学し薬剤師を志すことになる。

なぜ、薬剤師を志したのか、ついぞ聞かずじまいだったが、健康保険のない時代、病の人を救いたいという願いがあったに違いない。1960年9月15日、千葉市内に僅か4坪の薬屋の経営者としてスタートした齋藤さんは、他店では実践しない経営を続け成果をあげた。スーパーマーケット&ドラッグストアのコンビネーションンストア、大型のドラッグストア、アウトドア専門店、介護用品店など、さまざまな業態を開発し、今日、年商400億円企業として、地域住民から親しまれるドミナント展開を続けている。(続く)

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